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100th Anniversary

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100 years of history

100年史

武部鉄工所の100年をご紹介します

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第一章 黎明
(1919年~1945年)
 
武部留吉により、武部鉄工所の前身となる武部酸素工業所が創業した。
製缶や板金加工を主体に、蒸気ボイラーのドラムや鉄道用のモーターカー、
車両部品や暖房機器の生産を行い、事業拡大に成功した。

1919

武部鉄工所の前身となる、武部酸素工業所が創業

武部留吉は、1905年に弱冠16歳で単身上京し、
30歳で「武部酸素工業所」を創業した。
東京府下大崎に工場を構え、製缶や板金加工を主体に、
蒸気ボイラーのドラムや消毒器の製缶を行っていた。
※創業時の従業員は3~4名

◆武部 留吉
◆武部酸素工業所時代の作業の様子

1927

品川工場へ移転

創業後しばらくして大崎工場から目黒へ工場を移転した。
しかし、隣接工場の火災により全焼してしまう。
そのため、品川へ再度移転することとなった。

◆品川工場の全景イラスト

1933

東京瓦斯電気工業と取引開始

日野自動車の前身である「東京瓦斯電気工業」より、
車両部品の製造を直接受注するようになった。

1936

鉄道用モーターカーを生産

東京瓦斯電気工業よりエンジンの支給を受け、
鉄道保線用の鉄道モーターカーの生産を行っていた。

◆鉄道用モーターカー

1938

軍需用工作車の車体及び部品を生産

東京瓦斯電気工業の軍需用工作車「チケ」の
キャタピラー用転輪を生産していた。

◆東京瓦斯電気工業の16トン牽引車「チケ」

1939

株式会社に改組し、
「株式会社 武部鉄工所」となった

業容の拡大に伴い、1939年の11月に株式会社へ改組した。

1942

重機・工作機械の生産

製造部品の拡大を進め、車両部品や冷暖房機器のほか、
クレーンやウインチ、各種工作機械の生産を行うようになった。
  
1945年には、創業時3~4名から始まった大崎の町工場が、
品川と羽田に工場を構え、総勢95名の社員をかかえる会社にまで
成長を遂げた。

◆6トン積載用トレーラー

◆ロコモティブクレーン

第二章 復興
(1946年~1959年)

戦後の食糧難や材料不足を乗り越え、
大型プレス機を購入し本格的にシャーシフレームの生産を開始する。
また、空調部門に本格参入し車両事業と二本立て経営を確立した。

1946

トレーラートラック・バス用の厚板部品を生産

日野産業がトレーラートラック・バスの生産を開始した。
武部鉄工所では厚板部品(10mm)の加工を請け負うこととなった。

◆日野産業・T12型トレーラートラック

◆日野ヂーゼル・T12B型トレーラーバス

1948

送風機や熱交換器の設計製作を開始

高砂熱学工業より、冷暖房機器の設計製作を請け負うこととなり、
技術の習得と新分野の開拓に努めた。
その後「武部プレートフィンコイル」や「ファンコイルユニット」など
自社製品を展開するようになった。

武部プレートフィンコイル

◆ファンコイルユニット

1952

シャーシフレームの生産に参入

日野ヂーゼル工業の要請を受け、シャーシフレームの
生産に参入した。
新たにプレス工場を建設するため、羽田工場と品川工場を売却し、
東大崎に1,200坪の土地を購入した。
その土地に、東大崎工場を築くと共に、
2000トンプレス機を設置した。
     
◆東大崎工場

東大崎工場で製造していたトラックのシャーシフレ
     

1955

薄板絞り開始

GHQによる乗用車製造禁止及び制限令が解除され、
各社乗用車の生産を開始した。
武部鉄工所においても、乗用車用の薄板絞り加工が本格化し、
特に三井精機工業のオリエント号は曲線が多く、
加工に困難をきたした。

◆三輪車「オリエント号」の組立の様子

北品川工場と鶴見工場を開設

シャーシフレーム以外の製造も手掛けるようになると、
プレス後の組立や仕上げ加工を行う専門工場が必要となり、
新たに北品川工場を開設することとなった。
1956年には、日野系列でバスボディーの架装を手掛ける
帝国自動車の敷地内に鶴見工場を開設し、バス車体部品の
組立加工を開始した。

◆北品川工場の様子

1959

武部留吉社長 永眠

7月23日、満70歳の誕生日を前にして武部留吉が逝去した。
北品川工場で行われた告別式では、日野自動車の
荒川政司常務を葬儀委員長に、社葬として厳粛に営まれた。
工場の外壁には弔花が並び、関係者の弔問は途切れることなく続いた。

◆一周忌に設立された武部留吉の胸像

                             

2代目社長に武部文太郎が就任

武部留吉の経営方針を引き継ぎ、専務取締役だった武部文太郎が
2代目社長に就任した。

◆武部 文太郎

第三章 転進
(1960年~1969年)

生産拠点を神奈川県の厚木市に移し、大型プレス機を導入した。
また、ピックアップトラックのシャーシフレームの生産を開始するなど、
現在の生産体制に繋がる礎を築いた。

1961

神奈川県厚木市に新工場移転を決定

東京への人口流入が進み、生産に不便をきたすようになったため、
神奈川県厚木市の土地を購入し、工場移転を決意した。

◆購入当初の風景

1964

厚木工場開業と3000トンプレスの稼働

厚木工場が開業し、東大崎工場、北品川工場の全施設及び
全従業員が移転した。
また、当時世界最大級の3000トンプレス機を導入し、
品質・生産性・コストの向上に偉力を発揮した。

◆厚木工場落成式の様子

◆名取製作所製3000トンプレス機

1966

ピックアップトラックの
シャーシフレーム生産開始


トヨタ自動車と日野自動車の業務提携が発表され、
それに伴い、武部鉄工所に日野ブリスカ1300の
シャーシフレームの組立が移管された。
その後、日野ブリスカ1300はコンセプトを引き継ぎ
ハイラックスへ移行し、トヨタグループの小型商業車として
発展を遂げる。

◆初代ハイラックス

1969

空調事業の発展

厚木工場開設により、品川工場は空調事業の専門工場として
新たにスタートを切った。
空調事業は、建物の高層化と空調設備の需要増大に伴い、
小型、ユニット化が進められ、車両事業と共に
業績を拡大していった。

◆従来機よりも小型化に成功した「タケベ小型ファン」

◆客室ごとに温度調節ができる「ファンコイルユニット

第四章 品質
(1970年~1979年)

ピックアップトラックの増産対応や、
大型プレス機の移設や増設など多忙を極めるなか、
品質管理における功績が認められ、デミング賞を受賞した。

1972

ハイラックスのモデルチェンジ

1972年にモデルチェンジを行った。
1973年には年間10万2,000台を生産し、
1976年には年間18万4,000台と増産が続いた。
その為、新たにラインを増設し、更なる増産に備えた。
※1977年2月にはハイラックスとして、
 生産累計100万台を達成した。

◆2代目ハイラック


1974

プレス工場と部品工場を増設

増産に対応するため、工場南側に新たなプレス工場を増築し、
3000トンプレス2号機を設置すると共に、3000トンプレス1号機を
新プレス工場へ移設した。
同時期に増設された部品工場には、北側で行っていた
製缶工程を移設した。

◆新規導入した3000トンプレス機2号機

1975

デミング賞受賞

1974年にデミング賞への挑戦を宣言し、生産体制の整備、
品質保証体制の確立など品質管理水準の向上を図った。
大学教授や日野自動車から指導を受け、
1975年に品質管理における功績が認められ、
デミング賞を受賞することが出来た。

◆デミング賞授賞式

◆デミングメダル
 

1978

空調事業が厚木工場へ統合移転

空調事業を厚木工場に迎え入れるため、工場北西に組立工場、
吹付塗装工場、送風機試験工場及び事務所を新設した。
これにより、創業の地である品川・大崎地区から製造部門が
離れることとなった。

◆厚木工場に新設された空調組立工場

◆工場内部の様子

 

1979

キッチン排気ユニットの開発

小型化・ユニット化が進む中、一般家庭台所向けの
キッチン排気ユニットを開発した。
これまで一般家庭の台所では、換気扇が主流だったが、
マンションの普及に伴い、ダクトを介して排気するシステムが
増えて行った。

◆キッチン排気ユニット
                                       

第五章 成長 
(1980年~1989年)

塗装品質の向上のため、新たに塗装工場を増設したほか、
高張力鋼板の加工に先駆け、5000トンプレス機を導入するなど、
先を見据えた設備投資を行い、日本を代表するシャーシフレームメーカーへと成長を遂げる。 

1980

武部文太郎社長 永眠

7月22日、武部文太郎が逝去した。
港区南青山の葬儀所において取締役会長の小岩井正臣を
葬儀委員長に社葬が営まれた。
トヨタ自動車をはじめ、日野自動車や三菱自動車など、
関係先企業の代表者が多数参列し、会場は多くの
焼香者の列であふれた。

3代目社長に雑賀豊蔵が就任

3代目社長に専務取締役の雑賀豊蔵が就任した。
武部留吉の社長時代から経理を担当し、厚木工場の移転や
3000トンプレス機の導入など、大型投資案件を成功に導いてきた。

◆雑賀 豊蔵

1982

4代目社長に武部由次郎が就任

武部留吉の次男として生まれ、2代目社長の武部文太郎のもとで
空調部門を担当していた。
1968年に取締役営業部長、常務取締役を歴任した。

◆武部 由次郎

1983

超薄型ファンコイルユニット
「メンテラーク」の販売開始


空調事業は大手家電メーカーの販売攻勢を受けて苦境に立っていた。
起死回生を狙い、カセット型ファンコイルユニット「メンテラーク」を
開発した。
その名の通り“メンテナンスが楽”なのが売りで、取り付けが容易、
作動音が静かであることから、改良版も含め累計4,700台を
売り上げるヒット商品となった。

◆天井に取り付けられたメンテラーク

1985

カチオン電着塗装ラインの新設

海外の過酷な環境下で使用されるハイラックスには、
より高い防錆性能が求められた。
これを受け、小型車フレーム用のカチオン電着塗装ラインを新設した。
当時、既設のアニオン塗装とあわせ、東洋一の塗装設備となった。

◆カチオン電着塗装の第1号製品

1986

2000トンプレス機の導入

三菱自動車の小型トラック「キャンター」のシャーシフレーム生産が
武部鉄工所に移管されることとなった。
これに先駆け、水島製作所から2000トンプレス機が譲渡された。

1987

キャンターのシャーシフレーム生産開始

三菱自動車の小型トラック「キャンター」の
シャーシフレーム生産が本格的に開始された。

1989

5000トンプレス機の導入・本社事務所の完成

高張力鋼板の普及を見越し、精度の高いプレス加工を行う為、
5000トンプレス機を導入した。
また、品川の東京事務所を撤退すると共に、技術部門の強化により、
事務所が手狭になったため、本社事務所を新たに建設した。

◆川崎油工製5000トンプレス機


◆本社事務所

第六章 飛躍
(1990年~1999年)

シャーシフレームの年間生産台数が56万台を突破し、
いすゞ自動車、日産ディーゼルと取引が始まるなど、受注拡大に成功した。

1990

年間生産台数が56万台を突破

1988年に5代目ハイラックスが発売され、
1990年には年間生産台数が32.4万台となった。
他のシャーシフレームと合わせると、年間56.3万台に達し、
現在まで過去最高の生産台数を誇る。

◆5代目ハイラックス

1991

5代目社長に岩渕孝が就任

車両事業の営業、購買、工務、製造、生産管理などに精通し、
創業者である武部留吉の薫陶を受けた最後の世代で、
生え抜きのプロパー社長の就任となった。

◆岩渕 孝

1995

阪神大震災の仮設住宅用フレームを生産

1995年に阪神大震災が発生し、避難者向けの仮設住宅の建設が
急務となった。コマツハウスからユニットハウスのフレーム生産の
依頼があり、即断即決で生産を行うこととなった。

◆ユニットハウス

1996

NCパンチプレス※1を自社開発

多品種少量生産が増えてきたことから、サイドレール専用の
穴抜き加工機「NCパンチプレス」を自社開発した。
これにより、金型製作コストの低減やリードタイムの
短縮を可能にした。
 ※1 NCパンチプレスとは、プログラミングにより、
    任意の場所に、高速かつ正確に穴明けを行う工作機械
    (2005年 特許取得)

◆NCパンチプレス

1997

6代目社長に梶田英爾が就任

日野自動車専務取締役であった梶田英爾が就任した。
日野自動車タイ工場の生産拠点化や日野自動車羽村工場の
工場長を歴任するなど、工場経営に精通していた。

◆梶田 栄爾

                  

1998

いすゞ自動車・日産ディーゼル取引開始
                  
いすゞ自動車の小型トラック「エルフ」の部品生産を開始した。
日産ディーゼルについては、2001年より、
バス車体のリヤフレームを納めることとなる。
これにより、日野自動車、三菱自動車含むディーゼル4社との
取引を確立させた。

1999

小型トラックの受注拡大

日野自動車はトヨタ自動車と小型トラックの開発を始め、
1999年に「デュトロ」を発売した。
これにより日野自動車へ小型トラックの生産が全車種移管され、
シャーシフレームの製造を武部鉄工所が担うこととなった。
また、三菱自動車のキャンターにおいても、東京自動車製作所と
武部鉄工所にてシャーシフレームの製造を行っていたが、
東京自動車製作所が手狭になったため、武部鉄工所が
全量生産を請け負うこととなった。

◆日野自動車の小型トラック「デュトロ」

◆デュトロのシャーシフレーム

第七章 改革
(2000年~2009年)

祖業となる空調事業からの撤退、タイへ初の海外進出を果たすなど、
“選択”と”集中”のもと構造改革をすすめ、グローバル企業へと変貌を遂げる。

2000

7代目社長に武部一顯が就任

武部留吉、文太郎のDNAを受け継ぎ、
構造改革を進める旗手として、様々な施策を断行して行く。

◆武部 一顯

2002

鶴見工場の撤退

日野車体といすゞ自動車のバス製造会社「いすゞバス製造」が
合併したことで、鶴見にあったバスの組立工場が
石川県小松市に移転した。
その為、同敷地内にあった武部鉄工所の鶴見工場は閉鎖となった。
閉鎖後は、厚木工場よりバスフレームなどの部品供給を行っている。

◆鶴見工場で組み立てていたバスフレーム

2003

空調事業から撤退

車両事業に注力するため空調事業から撤退した。
製品のアフターサービスは、新たに(有)明和工業を設立して
引き継ぐこととなった。

2004

トヨタ自動車の小型トラック及び
SUVのシャーシフレーム生産を開始


トヨタ自動車の小型トラック「トヨエース」の
シャーシフレーム生産が開始された。
また、2005年には同社の小型トラック「ライトエース」、
2006年はSUVの「FJクルーザー」、
2008年からはランドクルーザープラドのシャーシフレーム生産が
開始された。

◆FJクルーザー

◆FJクルーザーのシャーシフレーム

2005

タケベ・タイランドの設立

ハイラックスは次期モデルからタイで生産されることが決定した。
これを受け、チョンブリ県にあるアマタナコン工業団地の
土地10万㎡を購入し、現地法人「タケベ・タイランド」を設立した。

◆タケベ・タイランド

2006

大型トラックのシャーシフレーム生産を開始

「プロフィア」のシャーシフレーム生産を開始した。
その後、2009年に工場南側に新たな組立工場を増設した。

◆日野自動車 大型トラック「プロフィア(2代目)」

2007

7代目ハイラックスの生産開始

タケベ・タイランドの工場建屋が完成すると
トヨタ自動車より購入した2000トンプレス機が設置されると共に、
組立ラインが整備された。
2007年1月からハイラックスのシャーシフレーム生産が開始された。

◆7代目ハイラックス

第八章 決意
(2010年~2019年)

自動車業界が100年に1度となる大改革時代に突入した。
自社製品の開発からタケベタイランドの飛躍、そしてマザー工場としての厚木工場の再構など
武部鉄工所は次の100年に向けて新たなスタートを切る。

2011

最新設備を導入
  

収益性の高いマザー工場となるべく、生産ラインの再配置、
構内物流の最適化など、工場の再構築を進める。

2011年1月に1000トンブランキングプレス機と
1500t油圧プレス機を導入した。
さらに、2014年4月には1600t油圧プレス機、1000tプレス機2台を
新たに導入した。
                                                                                                
タケベ・タイランドの飛躍

トヨタ自動車のIMV増産発表を受け、
世界最高レベルの溶接組立ラインを構築する。
2011年6月にはトヨタ自動車より1000トンプレス機を譲受したほか、
自社塗装を行うため、2012年に年間31万台の塗装能力をもつ
塗装ラインを新設した。

また、2011年1月から日野自動車の大型・中型トラックの
組立を開始し、2013年には5000トン油圧プレス機を導入し、
プレスから組立、塗装まで一貫生産を行える工場へと進化した。

◆新設された塗装ライン

2013

超ハイテン製FUP・RUPの量産化に成功 


トラック部品では世界で初めて
「100k鋼冷間プレス品FUP」の量産化に成功した。
さらに、2015年にはRUPの量産化にも成功する。

◆超ハイテン材を使用したFUP

アクスルハウジング部品の生産開始

アクスルハウジングのケースが、コスト及び
タクトタイムの低減のため、鋳物から板金に変更された。
これに伴い、武部鉄工所へ製造を移管することとなった。

◆アクスルハウジングケース

 

2019

創業100周年を迎える

創業当初、従業員3~4名だった町工場は、幾多の困難を乗り越え、
従業員500名を抱える企業までに成長を遂げた。

創業100周年を記念し、新たな思いを込めて
ロゴマークのリニューアルを行った。

◆新ロゴマーク

※写真引用 鈴木孝「日野自動車の100年 世界初の技術に挑戦しつづけるメーカー」三樹書房 2010年9月